古典ミステリーでは、誰が犯人だというのが主要な謎だ。 フーダニット(Who (had) done it)いうやつだ。
ただミステリーも歴史を重ねるにつれて、 意外な犯人というのが難しくなってきた。
読者の中には、「もっとも犯人じゃなさそうなのが犯人」という一種倒錯した目線で、ミステリー小説を読む人も増えはじめた。こうなるとどれだけ作家が趣向を凝らして意外な犯人を作り上げても、読者の驚きは少なくなる。
意外性と驚きこそが、ミステリーのもっとも重要な肝だ。これが少なくなれば、魅力も半減する。
一方、ハウダニット (How (had) done it)は、犯人がどうやって人を殺したのかという手段に謎がある。アリバイ崩しなどがこの中に含まれる。 これはフーダニットに比べると、読者が推理することは難しい。ただあまりにも要素が複雑になりすぎて、よほどのミステリー愛好家でないと、興味を持って読み進めてもらえないという難点がある。 パズルのピースが増えて喜ぶのは、パズル好きだけだ。ややこしすぎるわ、とそれ以外の人は匙を投げてしまうのだ。
あるジャンルが進化すると、新規参入者を置いてきぼりにしてしまう。ハウダニットはそうなりやすい傾向があった。
そこで生まれたのが、ホワイダニット( Why (had) done it)だ。これはなぜ犯人が殺人をしようと思ったのか? その動機が謎となっている。
この手法は、ミステリーでありながら人間ドラマも作りやすい。感動ミステリーと呼ばれるものは、たいていこのホワイダニットを取り入れている。
さらにフーダニットやハウダニットと組み合わせることで、ミステリーの要素を深めつつ、ミステリー愛好家でなくても楽しく読めるようになった。 ホワイダニットは、ミステリのハイブリッドがやりやすいのだ。
ホワイダニットというものが生まれた背景には、意外な動機には魅力があるということだ。
意外な動機といえば、僕は以前こんな経験をしたことがある。
それは、大阪の天満という駅で電車を待っていたことだ。
「兄ちゃん、ちょっとええか」
と声をかけられた。振り向くと、そこに中年の女性がいた。彼女を一目見た瞬間、「これはやばい」と警戒を深めた。
50代ぐらいで、頭はぼさぼさだ。
一体何世代にわたってのお古なんだ? 大正か? 明治か?
そんなボロボロの服を着ていて、視点が定かではない。未来予知でもしているかのような目だ。さらに前歯がなかった。
前歯がない人は要注意。もし自分で学校を作ったら、このフレーズは校歌に入れようと思っている。
「なんですか?」と僕が訊き返すと、
「大阪教育大行きたいんやけどな。こっちの方向でええんか?」
と彼女が顔を右に向けた。
「いいですよ」
「そうか。ちょっとわからんかってな」
と彼女はほっとしたように返すと、急に声を強めた。
「兄ちゃん、ちょっと聞いてくれるか?」
正直嫌な予感しかしないが、何を話したいのか興味がある。何かネタがあれば欲しい。作家としての悲しい習性だ。
「なんですか?」
「さっきな。子供が電車で騒いどったんや。もう鼓膜破れるんちゃうかっていうくらい騒ぎよってな。私むちゃくちゃ腹たったんや。ほんで怒鳴りつけたろかと思ったんや」
目と声が狂気の色で染まりはじめる。唇がひきつり、眉間にしわが刻まれている。やばい、と僕は尻込みした。やはり一目散に脱出するべきだったのかもしれない。
すると、彼女は肩の力をぬいた。
「でもな、私にはそんなことできへん」
「なんでですか?」
深みにはまるのはよくないと思いつつも、口が勝手に動いていた。
彼女が細い息を吐いた。
「私、学校の先生やないからな。子供を叱る資格なんかあらへん」
子供にしつけをするのに資格制度があるとは知らなかった。どうやら彼女は、教師でなければ子供に何か言えないと思っているらしい。
すると、とつぜん彼女の語気が荒くなった。
「だからな、今から大阪教育大学に行って、教師になろうと思うねん。それで教師なったら、さっき騒いでた子供見つけて、しばいたろうと思うねん」
それで、教育大行きたいん!
動機が斬新すぎて想像すらできなかった。おそらく教育界初の、先生になりたい動機ではないだろうか。
そして電車が到着して、彼女はそれに乗った。僕もその電車に乗る予定だったが、同乗する勇気はなかった。
果たして彼女は教師になれたのだろうか?
もしなれたとしたら、あの電車で騒いでいた子供たちに注意喚起したいものだ。
やばめのおばちゃんが殴りかかってくる可能性があるので気をつけろ、と。
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