人がブチギレる瞬間

怒っている人というのはたいてい怖いものだ。なるべくなら出会いたくない。ただ普段からずっと怒っている人に怒られても、あーまた言ってんな、とさほど衝撃も受けない。こちらももう慣れている。

これに反して一番怖いのが、普段温厚な人がブチギレる瞬間だ。これはとにかく怖い。子供の頃を思い返しても、おとなしい奴が急に超人ハルクのごとくブチギレ、机をひっくり返したりしてる時が一番怖かった。

温厚な人を怒らせる。これは実に罪深いことだ。ただ僕は人生で一度、その罪を犯してしまったことがある。

友人にKくんという人物がいた。彼は温厚を絵にかいたような人物だった。学生時代というものは、とにかく周りで喧嘩が絶えない。誰かしらが常に揉めている。その間に割って入るのが、いつもKくんだった。 Kくんが怒っている姿など見たこともないし、その姿を想像することすらできなかった。それほどできた人物だったのだ。

そんなある日だ。K君と一緒に銭湯に入ることになった。服を脱ぐ前に、Kくんがちょっと恥ずかしそうに言った。

「浜ちゃん、俺ちょっと毛深いねん。ひかんといてな」

「わかった」

と僕は答えた。自己申告はあったものの、さほど毛深くはないだろう。僕はそう軽く考えていた。

だがその想定は思いっきり外れていた。Kくんはめちゃくちゃ毛深かった。肌が見えないぐらいの毛深かさだ。Kくんはどう見ても顔立ちは日本人だが、その体毛の濃さだけは、オリンピア一と評された絶倫古代ギリシャ人のようだ。(なんとなくのイメージです)

「いや別にそんな濃くないやん」と僕はすぐに嘘をついた。早めの嘘で、感情が顔に出ないようにする作戦だ。

「いや濃すぎるわ。自分でも鏡見て、ゴリラやんて思うくらいや

とKくんが冗談を口にした。自虐にできるなら、そこまで気にしていないのだろう。僕はそう判断した。

まずは体を洗うことにした。Kくんはタオルに石鹸をこすり、丁寧に泡立てている。 それを見て、僕は思わず口にしてしまった。

「そんな毛深かったら、石鹸で直接洗っても泡立つやろ」

ぽろりと言葉がこぼれたというやつだ。

その瞬間だった。Kくんの表情が豹変した。そして聞いたことのない怒鳴り声を上げた。

「言っていいことと悪いことあるやろ!」

阿修羅像が仏顔バージョンから、修羅バージョンになっている。

「……ごめん」

と僕は即座に謝った。正直震え上がるぐらいビビった。まさかあの温厚なKくんが、『毛で泡立つやろ発言』でそこまで怒ると思わなかったのだ。逆鱗に触れるという言葉があるが、まさにKくんの剛毛の中に逆鱗がまぎれていたのだ

僕は何度も謝り、どうにか許しをもらえた。

ここで僕は二つの教訓を学んだ。温厚な人を怒らせては決していけない。それほど罪深いことはない。

そして毛深い人に『石鹸で直接こすっても泡立つやん』と言ってはいけない。

この二つは、今も守っている。

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作家です。放送作家もやってました。第5回ポプラ社小説大賞特別賞を受賞し、『アゲイン』でデビュー。『22年目の告白ー私が殺人犯ですー』は20万部を超えるベストセラーに。他に『宇宙にいちばん近い人』『シンマイ 』『廃校先生』『神様ドライブ』『くじら島のナミ』『貝社員 浅利軍平』などがある。お仕事(執筆、講演)の依頼は、お問い合わせ欄まで。