発信が年金になる時代

セレッソ大阪の都倉選手の記事を読んだ。

都倉選手はツイッターやインスタやを積極的にやられているそうだ。最近ではオンラインサランもはじめられた。読書家としても知られていて、ブログに本の感想などを書かれている。

その理由を、「サッカー選手は週に一回の結果でしか見られない。ならばSNSを連動させて一週間のストーリーを共有できれば、ファンじゃない人もファンになってくれるかもしれない」とこういうことを書かれていた。

これを読んで、大いに感心した。作家は週に一回どころではない。どれほど速筆の作家でも、月に一冊書ければいい方だろう。つまりSNSをなにもしなければ、月に一回だけの露出となる。しかも本は好きな人しか買って読んでくれない。サッカー選手よりも、作家の方がネットでの発信を心がけないとだめなのだろう。原稿ずっと書いて今日はブログ書くのしんどいな、フォートナイトやろうかなとか言っている場合じゃないのだ。(いや、ゲーム配信をやるという手もあるな……)

マスメディアが独占していた発信する力が、ネットのおかげで世の中すべての人に解放された。けれどしっかりと自分の行動や考え、作品を発信している人は、まだまだ少数派のような気がする。

都倉選手や僕のようなフリーで活動する人間は、発信しないと生き残れないので、発信率が必然的に高くなる。

でもサラリーマンや組織にいる人は、発信率がまだまだ少ない印象がある。特に名のある企業にいる人は。自分はどこどこの会社にいて、こんな行動をしたり、こんな考えを持っている。そういう発信をされている人はほとんどいない。

まあ会社の規定やそれをしにくい空気などもあるので、そうそう気軽にはできないのだろうが、それでも少なすぎるような気がする。副業を許す会社が増えてきたように、もっと企業は社員の自由な発信を許してもいいんじゃないだろうか。

なぜそんなことを思ったのかというと、僕のお世話になったテレビ局の方々でそろそろ定年を迎える人が出てきたからだ。

僕がまだ二十代の頃は、みなさんプロデューサーとして活躍されていた。放送作家にとって、番組プロデューサーは絶対的な存在だ。何せその放送作家を番組に呼ぶ、クビにするという権限は、プロデューサーが持っているからだ。

だからその頃一緒に働いていた人たちに対して畏敬の念を持っている。プロデューサーというのはとにかくすごい人だという感覚が身に染み付いている。

だがそんな方々が定年になると、普通の一般人になるのだ。彼らが公園でよく日向ぼっこをしているような人たちになるのが、どうもうまく想像できない。

会社という組織の名前だけで仕事をしていると、会社を辞めると一個人に戻される。それが、何かもったいないなと感じてしまう。

けれど現役の社員の頃から発信を心がけていて、会社としてではなくその人個人にファンがいれば、定年後も活躍できる。

会社が大きければ、有名であればあるほど、社員としての発信はメリットになる。それは僕のように組織に属してない人間にはできないことだ。

発信が年金の役割を果たしてくれる時代になったんじゃないだろうか。サラリーマンの方々ほど、発信をしないのはもったいない。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

ABOUTこの記事をかいた人

作家です。放送作家もやってました。第5回ポプラ社小説大賞特別賞を受賞し、『アゲイン』でデビュー。『22年目の告白ー私が殺人犯ですー』は20万部を超えるベストセラーに。他に『宇宙にいちばん近い人』『シンマイ 』『廃校先生』『神様ドライブ』『くじら島のナミ』『貝社員 浅利軍平』などがある。お仕事(執筆、講演)の依頼は、お問い合わせ欄まで。