『一発屋芸人列伝・山田ルイ53世』について

ここ最近読んだ本の中で、『一発屋芸人列伝』という本が面白かった。著者は、山田ルイ53世さん。 髭男爵というお笑いコンビの髭の人といえば、すぐに頭に思い浮かばれるかもしれない。

一発屋芸人というのは、ある一つのネタで一世を風靡し、その後活躍できなくなる芸人を意味する言葉だ。 花火のように一発だけ打ち上がり、すぐさま消えてしまう。だから一発屋と呼ばれている。どちらかというと揶揄の意味で使われることが多い。

正直、一発あてるだけでもとんでもなく困難なことだ。 大半の芸人が、この一発をあてることができずに消えていく。 一発屋というのはとてつもない成功者なのだ。

なのに一発屋という響きには、 どこかマイナスな印象がある。ヒットをあてた成功者なのに、どこか嘲笑されてしまう。そんな存在なのだ。

なぜそんな扱いをされるのか? まず一つ目の理由が、ネタで爆発的な人気を得て、きちんとその後も活躍できている芸人さんが他にいるというのがある。彼らと比べると、たしかに一発屋というのは成功できていない。いわゆる比較の問題で、一発屋は低く見られてしまう。

そしてもう一つの理由が、 一発屋のネタの多くは飛び道具だからだ。

たいていの若手芸人がまず目指すのは、漫才師だ。 M−1という賞レースがはじまってからは、コント師よりも漫才師を目指す比率の方が高い。

マイク一本あればどこでもできる。 漫才というのは、どこか職人性を感じさせる芸でもあるので、芸人さんの中では憧れをもって見られる。

さらにその漫才の中でも、しゃべくり漫才と呼ばれるものがある。コンビの衣装はスーツで、おしゃべりの内容だけで勝負する。お笑いという分野の中で漫才は王道だ。その漫才の中でも王道であるのが、このしゃべくり漫才だ。

そして M −1 という存在が、そこに強烈な光をあててしまった。ただでさえ憧れをもって見られている漫才というジャンルが、 M −1のおかげでさらに強固なものとなった

王道の漫才を極め、M−1で優勝する。そしてスターダムへとのし上がる。芸人としてこれほどかっこいい歩み方はない。この道を目指すことが、大半の芸人の目標となってしまった。

だが王道というものは、どんな分野でも大混雑しているものだ。競争率も激しく、その道のりは困難だ。M−1の決勝で通用するような漫才の技術を身につけるには、才能だけでなく、時間も根気も必要となる。

何より王道という言葉は、見方を変えればベタでありきたりとも言える。 これだけ芸人の数が増えた昨今では、王道漫才はほとんど目立たない。これではあふれる芸人という洪水にのまれて終わってしまう。

最初は無邪気にM−1を目標にしてきた若手芸人たちも、芸歴を重ねるにつれてこの現実がわかってくる。そしてこう考えるようになる。

王道漫才は俺たちには無理だ。ならばもっと別のやり方がないのだろうか……。

そこでキャラクターに特化するようになる。違う自分になりきることで、キャラクターに特色を持たせる。そうすることで他の芸人たちよりも目立とうとする作戦だ。毛色は多少異なるが、リズム芸と呼ばれる芸もこの範疇に入る。

これは戦略としては何も間違えてはいない。芸人の目標は、何もM−1で優勝することではない。

売れることだ。

M−1で優勝するというのは、芸人として売れるための戦略の一つにしか過ぎない。そして売れるための戦略は、M−1以外にも多々ある。

それにどちらかというと、成功する戦略というのは他の人間がやらないことをやる方が正解となる。それだけ競争率が低くなるからだ。

相場の格言に『人の行く裏に道あり花の山』というものがある。人と逆のことをやった方が成功するという意味だ。だから戦略としては、M−1以外の道を目指すことは正解だとも言えるかもしれない。

けれどキャラクターやリズム芸などは、邪道とも呼ばれている。一発屋芸人というのは、この邪道の道を選択して人気者になっている。彼らの多くは当初正統派の漫才師を目指して挫折し、やむをえず邪道を選んでいるケースが多い。

だからこそ、彼らは正統派の漫才師に引け目を感じてしまう。僕のような部外者からすれば、そんな後ろめたさを感じる必要はないと思うのだが、本人たちはそう感じないみたいだ。この一発屋芸人列伝の中でも、山田さんがその複雑な心情を詳細に描いてくれている。

ただネタが評価されて、テレビに出演できるようになるという目標は叶ったのだ。邪道だろうがなんだろうが、売れたもの勝ちだ。あくまでネタというのは、売れるためのきっかけにすぎない。

彼らはそう思いを新たにし、次の戦場であるバラエティー番組に切り込んでいく。 だがそこは、百戦錬磨の芸人たちが死闘をくり広げている世界だ。そう簡単に結果を出せるものではない。どうにかしななければと試行錯誤するものの、そこでもがける時間はそう長くはない。

その時間とは、視聴者がそのネタに飽きる時間だ。この刹那の間に、芸人さんたちは結果を出さなければならない。王道で結果を出さなかった芸人さんたちは、よりこの時間が短くなる傾向にある。

そしてあっという間にタイムリミットが過ぎて、彼らはテレビから姿を消していく。そして一発屋芸人と呼ばれるようになる。

つまり一発屋芸人というのは、成功者であり失敗者でもある。ある種二立背反した存在なのだ。

そういう人間から本音を引き出すとなれば、生半可な聞き方では難しい。

普通のライターさんがする一発屋芸人のインタビューだと、踏み込みが弱い、もしくは踏み込みすぎる。

一発屋芸人は成功者でもあり失敗者でもあるのだ。だからこそ、その矛盾する両方の要素を同時に引き出す必要がある。それがなかなか普通の聞き手ではできない

けれど山田さんは、その困難な要望に見事に応えてくれている。なぜなら山田さん自身がその一発屋なのだから。だからこそ一発屋の心情が手に取るようにわかる。その距離感が絶妙なのだ。

さらに芸人さんが書く文章というのは、サービス精神が多すぎるため、比喩が過剰であったりバランスが崩れていたりすることもあるのだが、山田さんの文はそれが適度におさえられている。そこも魅力の一つだ。

『一発屋芸人列伝』おすすめです。

 

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作家です。放送作家もやってました。第5回ポプラ社小説大賞特別賞を受賞し、『アゲイン』でデビュー。『22年目の告白ー私が殺人犯ですー』は20万部を超えるベストセラーに。他に『宇宙にいちばん近い人』『シンマイ 』『廃校先生』『神様ドライブ』『くじら島のナミ』『貝社員 浅利軍平』などがある。お仕事(執筆、講演)の依頼は、お問い合わせ欄まで。