『雨あがる』という映画が好きで、何度かよく見ている。
主人公は浪人で、士官の先を探している。現代風に言えば、無職の人の職探し映画といってもいいかもしれない。
江戸時代の武士が士官の口を求めるのは大変な苦労だった。何せ戦国時代のように戦などがない。つまり武士への需要も、活躍しろもないのだ。こうなると新規参入は厳しくなる。昔のようにはいかないのだ。
士官ができないのだから商売でもやるか。そう気楽に考えられた人は、商人になった。それで大成功を収められた人も多々いる。
だが中々そんな割り切りはできない。なぜなら彼らは幼少時代から武士としての教養と剣の腕を磨き続けていたからだ。いわば高学歴ニートみたいなものだ。
「男に生まれたからには武士にならなければならない」「武家に生まれたからには士官しなければならない」
こんなこだわりを持った武士ほど貧乏生活を強いられた。まさに武士は食わねど高楊枝だ。
時代が変わったのに、かつての価値観や理想を捨てられなかったのだ。
大阪で商人が活躍できたのは、武士がほとんどいなかったからだろう。人というのはどうしても周りの空気に影響される。大阪は武士が少ないので、このようなこだわりを持つ人間が少なかった。だから商人が大手を振って歩けたし、商人を目指す人も多かった。
だが江戸のような武士社会ではそうはいかない。誰もが武士を目指すのが当然という空気だったのだろう。
「なんでそんなに士官がしたかったんだろうね」と当時の浪人を僕たちは笑えない。自分たちも似たようなものだ。
例えばこの前大学で講義をしたのだが、みんな就職に関して悩んでいた。
僕は一度も就職をしたことがないので、「就職しなかったらいいんじゃないの」と答えると、「そんなわけにはいきません。大学出させてもらって就職しないなんてありえません」と彼らは目を剝くのだ。
そうか、俺はありえない存在なのか……と軽く傷ついたのだが、強いこだわりと常識が柔軟な思考を邪魔している気がする。
就職しなくても普通に生活できている人はいくらでもいるし、勤め人よりも儲けてる人も多い。
就職しなければならないというこだわりのせいで、大学での講座の取り方も、自分が学びたい分野よりも就職しやすい分野を選んでいる。
就職するために大学に通っているようなものだし、それでは大学生活がまったく楽しめない。
武士とは士官するものだというこだわりで苦労していた浪人とまるで同じじゃないだろうか。
これは就活中の大学生じゃなくて、どんな分野でもある。
例えばお笑い芸人の世界では、テレビ黎明期に「テレビなんか出るのは芸人やない。芸人は舞台に上がってお客さんに芸を見てもらってなんぼや」という芸人さんが多々いた。
だが以降活躍したのはテレビに出た芸人さんたちだった。昭和初期の古い芸人さんは、芸人とはこういうものだというこだわりを捨てられなかったのだ。
落語家は落語ができないとダメだ。これはこだわりというよりも常識に入るかもしれないが、それをしなかったのが明石家さんまさんだ。
さんまさんは落語家出身でありながら落語ができない。落語家は落語をするものという常識を破り、テレビ芸を極めたからこそあれほど成功したのだろう。
そう考えると、作家にもいろんな常識やこだわりがある。
「本は売れないとダメ」「出版社から本を出さないとダメ」「賞を取らないとダメ」「専業でないとダメ」「オリジナルでないとダメ」「作家自身が書かないとダメ」
まあ時代は移ろってもこれだけは必要だというのもあるのだろうが、変革期ではこだわりが邪魔になることの方が多い。
そして逆のことを言うけど、ストーリティングでは過去の価値観が重要になると前に書いたことがあるが、その過去の価値観こそがかつて重要だったこだわりだ。
つまり昭和の芸人さんの世界を書くのならば、テレビを否定し舞台にこだわる芸人さんを描いた方が物語になりやすい。
そういう意味でも、キャラクターがどんなこだわりや常識を持っているかを考えるのは作家にとって重要だ。
自分にはどんなこだわりがあり、どうこだわりを捨てられるか。これからの時代はその姿勢が大切になる。
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