タイトルがいらない世界がやってくる

NHKでやっていた『平成ネット史(仮)』の再放送を見ていて、堀江さんが面白いことを言っていた。

ツイッターやFacebookがブログより普及したのは、タイトルをつけなくてよかったからだ。

なるほど、たしかにそうだ、と僕は膝を打った。

タイトルをつける手間がないので、SNSはブログよりも手軽に発信できるということなのだ。

ブログでタイトルをつけることを手間だとは思わなかったが、メールを打つときにタイトルをつけるのがいつも困る。

タイトルなどつける必要のないメールが大半だ。だからメールよりもLINEでのやりとりの方がスムーズにいく。たしかにこのときはタイトルって手間だなと思ってしまう。

さらにタイトルで四苦八苦するのが、小説のタイトルだ。

小説のタイトルって一発でなんの文句もないタイトルが出れば、これほど最高のことはない。僕のこれまで出した小説で言えば、『廃校先生』『神様ドライブ』などがそうだ。これは最初からタイトルが決まっていた。

だがタイトルが一発で決まらないと、かなり苦労する。

例えば『シンマイ!』なんかは、最初は『米ヤンキー』だった。ヤンキーが米農家になるので、このタイトルにしていた。

さすがにこれはダメだとなり、他のタイトルを考えることになった。だがいくら案を出しても編集者さんが了承してくれない。そこで最終的に編集さんが「シンマイはどうですか?」と提案してくれたのだ。

作品のタイトルというのは、作品すべてに関わることなので、それを考えるのは並々ならぬ苦労がいる。もしかすると作品自体を作ることより大変かもしれない。

メールやブログのタイトル程度ではその苦労はわからないが、小説までになるとタイトルをつけることにエネルギーが必要なことがよくわかる。

だからツイッターやFacebookの投稿にタイトルが必須だったならば、ここまで広く普及しなかっただろう。

意図してか意図しないでかわからないが、タイトルなしで投稿できるようにしたのは一つの発明だったことになる。

けれどタイトルがない欠点もある。

それはアーカイブにできないことだ。

タイトルがないということは後々検索して見るほどの価値がないということでもある。ツイッターやFacebookの投稿は、基本的にはその場限りだ。いくらバズっても、その期間は極端に短い。タイトルがないということは、耐久期間も短くなるということでもある。

ブログが検索で見てくれる人が多いのは、タイトルがあるからだ。つまり逆から言えば、タイトルをつけることはその内容に価値を与えることでもある。

そしてタイトルとは名前だと言い換えられる。

ファンタジーでは名前が重要な意味を持ってくる。ゲド戦記でもハリーポッターでも、名前が物語の根幹をなしている。どの作品でも名を求めたり、名を恐れたりするキャラクターが登場する。名前とはその人物、物体そのものなのだ。

だからタイトルがない作品や文章というのは、その存在が希薄になる。小説もタイトルなしで書きはじめて、あとからつけるケースもあるのだが、そのとき書いてる小説はどうもふわふわしている。自分が何を書いているのか、その輪郭がわからない。そんな感覚に陥るのだ。

ところが仮名でもいいからタイトルをつけると、たちまちその輪郭が明確になる。名を与えるとは、魂を吹き込むことでもあるのだ。

これからは小説、漫画、映画などの作品もタイトルがなくなっていくんだろうか? そういえばツイッターやインスタで投稿されている漫画にはタイトルがないものも多い。もしそういう作品が擬人化して集まる酒場があれば、愚痴だらけになっているだろう。

『名無し』という言葉に僕は若干の恐怖を感じるが、未来の人はそういう感覚がなくなるのだろうか。

タイトルがない、名前がないということが常識となる。名前が番号になり、そしてついには番号でもなくなる。脳とAIが直結しているので、認識に名前も番号も必要なくなるのかもしれない。

名前を求める主人公のSFとか書けそうだ。

 

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ABOUTこの記事をかいた人

作家です。放送作家もやってました。第5回ポプラ社小説大賞特別賞を受賞し、『アゲイン』でデビュー。『22年目の告白ー私が殺人犯ですー』は20万部を超えるベストセラーに。他に『宇宙にいちばん近い人』『シンマイ 』『廃校先生』『神様ドライブ』『くじら島のナミ』『貝社員 浅利軍平』などがある。お仕事(執筆、講演)の依頼は、お問い合わせ欄まで。