太宰治は芥川賞を取ることに執拗にこだわっていたことは有名な話だ。
選考委員である川端康成に長さ4メートルにも及ぶ書簡を送りつけ芥川賞を切望したが、とうとう受賞は叶わなかった。
今の作家以上に、昔の作家にとって文学賞というのは最大の目標だった。作家を評価する絶対価値が、作家にとっても世間にとっても文学賞だった。文学賞を取ることが、作家にとっての承認欲求を満たす一番大きな手段だったのだ。
だがこの文学賞に固執してしまうと、作家は不幸になる気がする。太宰も決して幸福とは言えなかったはずだ。(作家は不幸でなければ傑作は書けないという説もあるが、それはまあ置いといて)。
今作家以上に賞にこだわっているのが、若手芸人さんだろう。
Mー1、Rー1、キングオブコントなどの賞レースで優勝し、スターになる。これが若手芸人の最大の目標だ。
特にM−1はその傾向が強い。漫才というある種職人芸での戦いというのと、Mー1というコンテンツそのものが、芸人同士の白熱した戦いを演出の確たる要素として据えているからだ。
常設の劇場が多く、普段板の上に立つ機会の多い吉本の芸人さんは、特に漫才師という存在に憧れを抱きやすい。だから吉本の若手芸人のM−1に対する情熱は凄まじいものがある。
その切磋琢磨する姿はドラマになるし、感動もする。僕もそんな芸人さんを心から応援しているし、なんとか力になりたいと思っている。
だがMー1の勝者は、年に一組だけだ。必然的にそれ以外は敗者になる。Mー1のエントリー数は約5000組。つまり一万人だ。
優勝コンビ以外の、9998人は敗者になってしまうのだ。これほど確率の低い賭けもない。
Mー1というものを目標にしすぎると、人生が楽しくなくなってしまう……目標を目指すということには、そんなマイナスの一面もある。
これは作家、芸人に限らず、どんな職業でもあるだろう。
サラリーマンには出世争いというものがある。もちろん競い合うことで自己を研鑽することは悪くないのだが、そこだけに価値を求めると、その目標を到達するまでが不幸になってしまう。
なぜこうなるのかを考えると、自分のアイデンティティーがその職業一つしかないからだ。
だから賞を取る、社内で出世するということが、アイデンティティーを確立し、自身のプライドを満足させる唯一の手段となってしまう。
これを防ぐには、複数の仕事をすることが一番なんじゃないだろうか。
また芸人さんで例えるが、キングコングの西野さんやピースの又吉さんはまさに代表的な例だ。
お二人とも若くして売れている印象はあるが、テレビという世界ではスター芸人と言えるほどでもなかった。
テレビの世界では俺は上には行けない。西野さんは著書でそう書かれている。そこでテレビで活躍するという道に固執するのではなく、別の道を模索することにした。
それが西野さんは絵本作家であり、又吉さんは文学だった。
お二人とも芸人プラス別の道を見つけたことで、以前以上に自分に自信を持てることができているように見える。
Mー1に優勝してなくても、絵本作家、小説家として成功したことで、二人はMー1チャンピオン以上の確固たる自信を勝ち得ることができたのだ。
サラリーマンの人で会社では同期に先を越されていても、ブロガーやユーチューバー(なんでもいい。他の仕事)で人気を集めている人ならば、その同期の人間に対して劣等感を持つことはないだろう。
なぜなら会社だけが、その人にとっての評価基軸ではないからだ。仕事を複数持つことは、評価軸を増やすことでもある。だから一つの軸で負けていても、他の軸が補ってくれる。
勝ち負けにこだわる人ほど、仕事を多く持てば自信を持てる可能性がぐんと高まるのだ。
これからは単職ではなく多職の時代だと言われているが、多職にはこんなメリットがあるのだ。
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